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伊予市パーフェクトガイド

伊予市ガイド vol.242【こたろうの『伊予市、ナニミル?ナニヲシル?』】 第51回:源平伝承-(2)

ようおいでたなもし、伊予市パーフェクトガイドの世界へ~♪~♪~♪

 

第242回目は、伊予市にある「こたろう博物館」の館長であるいせきこたろうさんの

『伊予市、ナニミル?ナニヲシル?』

第51回源平伝承シリーズ2回目です♪

 

お楽しみください!

 今回は源平伝承の第二弾として、平家の対抗勢力である源氏の話を取り上げることにする。

鎌倉神社のこと

 谷上山の麓、称名寺(伊予市上吾川十合)の下側のため池・鎌倉池の辺に鎌倉神社がある。村の人たちは親しみを込めて「鎌倉さん」とも呼んでいる。

写真:鎌倉神社

 この神社、何時の頃に鎮座したのか定かではないが、かなり古くから存在していたようだ。明治末期に伊予岡八幡神社の境内社上之川神社に合祀されて廃社となったようだが、今もなお、写真に示すように立派な社殿を構えている。
 さて、この神社にはどんな神様が祀られているのだろうか。一般的な神社なら、天照大神、素戔嗚命、住吉三神……といった古事記に出てくるような神々や、八幡神など歴代天皇が祭神として祀られているのだが、この鎌倉神社の祭神は源範頼(みなもとののりより)、歴史上の人物である。いわゆる「人物神」だ。人物神を祀るのは、何も珍しいことではない。学問の神として菅原道真を祀る天満神社が全国各地に数多く祀られていることは皆さんもご存じだろう。


 しかし、源範頼を祭神とする神社というのは極めて少ない。調べ尽くしたわけではないが、僕の知る限り愛媛県内ではこの鎌倉神社以外に存在しない。全国的に見ても、島根県津和野町の八幡神社に他の源氏数人と共に合祀されている例が見当たるぐらいである。そんな希少な存在なのだから、是非ともチェックしておきたい神社だ。

 

 加えてこの社の後ろに。範頼の墓といわれる苔生した小さな五輪塔墓がひっそりと佇んでいる。近くには臣下の塚(墓)といわれるものが約20基存在するらしいのだが、草叢に隠れてか、それらしきものは目に留まらない。

写真:源範頼の墓

 この範頼の墓こそが、鎌倉神社建立の発端である。かなり昔からその存在が知られていたようで、また大洲藩の崇敬が篤かったようでもある。三代藩主・加藤泰恒が、延宝五年(1677)年に郡中へ来た時に範頼の墓に参拝したのだが、その時は約10m前で裸足になり、約5m前から跪いたと語られている。鎌倉神社が建てられた時や、その後幾度かの建替を行った際などには、大洲藩から金銭的補助が出たようでもある。


 古来、戦いの神として戦勝や武運長久の祈願にと多くの参拝者で賑わっていたようだ。江戸末期には、「蒲冠者範頼公墓」と刻まれた大きな石碑(写真中央)も建てられた。ここで、「蒲冠者(がまのかじゃ)」というのは範頼の別呼称であって、「蒲」は範頼が生まれた育った遠江国蒲御厨(静岡県浜松市、伊勢神宮の御厨)を指し、「冠者」は一人前の武士を表す。

源範頼とはどんな人物か?

 

 さて、源範頼とはどのような人物だったのだろうか。ざっと纏めておこう。

 源範頼は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の異母弟である。また、源義経(みなもとのよしつね)の異母兄である。


 源平合戦の折には、頼朝に平家追討の総指揮官を命じられて山陽道を西に下ったのだが、戦果が上がらず、総指揮官の座を義経を奪われた。それでも壇の浦の合戦等で大きな武功を立てた人物である。


 文治元年(1185)、源頼朝によって鎌倉に幕府を開かれた。兄弟で平家を討伐し、共に仲良く国を治めていくと思いきや、やがて兄弟間の不和が生じる。義経が無断で朝廷から官位を受領したことなど、独断専行が鎌倉の武家政権の秩序を乱すとして、頼朝が全国の武士に義経討伐を命じたのだ。


 建久4年(1193年)、源頼朝が討死したとの誤報が伝えられる。この報せを受け悲しみに暮れる頼朝の妻・北条政子に、範頼は「範頼ある限りご安心を」と慰めたことで、幕府横領の疑いを招いたようだ。冤罪である。範頼は釈明したが、遂に伊豆国修禅寺(静岡県伊豆市)八塔司の一つ信功院に幽閉された。


 そして、建久4年(1193)、頼朝の家来である梶原景時に不意打ちされたのだ。範頼は応戦したが甲冑を身に纏う暇もなく、また武器も足りなかったことから、観念して館に火を放ち焼身自殺を図った。
 これが、源範頼の末路の一般的な話だ。それでは何故、ここ伊予の地に範頼の墓が存在するのだろうか?

源範頼、伊予に逃れ蒲山城へ

 

 範頼は修善寺で自害したというのが一般論だが、実は密かに難を遁れていたというのが、伊予に伝わる伝説だ。源氏とゆかりの深い河野通俊(通信の庶子、得能氏の租)を頼って伊予へと落ち延びた。そして、浮穴郡の蒲山城(中山町出渕)に居城した。そして、貞永元年(1232)にこの地で病死し、土地の人々に丁重に弔われたのだというのである。


 蒲山(かばやま)は、伊予市中山町出淵と砥部町広田地区の境界に聳える標高 873mの山である。この山の尾根、ちょうど伊予市側で言えば影之浦栃谷の境の標高754m辺りに蒲山城があった。伊豫温故録に拠れば「出淵村にあり 東大蔵太夫居る 奥六組を領す 墓あり 又た百人窪といふて城辺に四方より見れば山と見ゆるに中窪にて行かざれば見へず伏兵したる所なりと 此城昔し蒲冠者源範頼居給ひたり 此所の里人は皆其の従臣の末孫なりと言ひ伝ふ 蒲冠者の墓は上吾川村称名寺の上にあり」とある。これから「範頼が蒲山城に居城したこと」「範頼の墓が上吾川にあること」がわかる。また文脈から、源範頼が逝去した後、東大蔵太夫が居城したことが掴める。


 蒲山城跡には、石造の祠、明治初期には堂が設けられ、源範頼・東大蔵太夫およびその家臣の霊を祀っているらしく、今もなお、8月には栃谷地区の人々が蒲山城跡で法要・おこもり行事を行っているようだ。


 蒲山城周辺には城主および武将の墓とされるものが数ヶ所点在しているらしい。例えば、野中地区影ノ浦集会所裏にはある高さ70cm強の一石彫の石塔は、古伝によれば蒲山城主の墓ともいわれ、鎌倉時代末期に建てられたと伝えられている。これが、城主が源範頼・東大蔵太夫のどちらの時代のものかは定かではない。現地踏査や情報収集不足で、墓碑の数、所在地、刻字などはまったく追い切れていないので、宿題として片付けるよう、なんとか頑張りたいところだ。

なぜ吾川に範頼の墓があるのか

 

 範頼が蒲山城の居城し、その地で亡くなったことまでは概ね掴めた。だとすれば、なぜ範頼の墓が上吾川の地にあるのか。この経緯がはっきりとしない。蒲山城で病死したのではないのか。


 考えるに、大病を患ったとか何等かの理由で城を他の者に譲り、上吾川に居を移したのではなかろうか。称名寺付近はかつて平家派の高市氏が吾川館を置いた場所だが、高市氏がここを引き払った城館を貰い受けたと考えれば、何となく辻褄が合いそうだ。
中山町出淵で亡くなってから遺骨を上吾川に埋葬したのかもと考えもしたが、上吾川に墓を設けることの必然性を説明する材料が見つからない。

写真:称名寺境内

 称名寺は、範頼が再建したともいわれるので、やはり生前は上吾川に居住していたと考えたいところだ。


 問題は、その位置関係だ。伊予市誌によれば、称名寺伊予岡八幡神社の別当寺で、元々は上吾川の松本にあったという。伊予岡八幡神社の小丘の西麓あたりだ。そして、戦国時代に寺は兵火に遭い仮建てをして一時を過ごしていたものの、江戸時代の明和七年(1770)に現在地に移り、本堂・庫裡などが建立されたと記されている。ならば範頼の墓等も、この時に移設されたのだろうか。


 伊予市誌には、更に『大洲旧記』を引用して、「(称名寺は)文治五年(1189)に蒲冠者源朝臣範頼の菩提のため再建した」と記載している。この年は、範頼はまだ生存していて鎌倉に居たはずであり、範頼の菩提を目的とするのは矛盾している。


 また、伊予市誌は『伊豫俚諺集』を引用して「当寺は貞永元年(1232)蒲冠者範頼を葬った所で、麓の池の上に五輪の塔があり…」と記しているが、こちらは時期的には矛盾しない。ただ、「麓の池の上に五輪の塔」だから、この頃には既に現在地に称名寺が建立されていたことになり、江戸時代に上吾川の松本から現在地に移転したということと矛盾する。『御替地古今集』にも、「檀寺は村真言宗称名寺…(中略)…当寺の北東に当たり、鎌倉範頼の廟所(おたまや)と申し伝え御座候…(中略)…弘安十年(1287)正月十一日これを定む」との記載が見えるのだから、鎌倉時代後半には、称名寺・範頼の墓は現在の場所に存在したと考えるべきだろう。

愛媛県以外の範頼の墓

 

 範頼の墓なるものは、範頼が焼身自殺を図ったとされる伊豆の修善寺にも当然のごとく存在する。修禅寺温泉場西北側の山腹にあるらしい。この他、大寧寺(神奈川県横浜市金沢区)、東光寺(埼玉県北本市)にも伊予市と似たような逃亡伝説がある。


特に大寧寺については、その寺の南東約800mのところに、称名寺という寺が見える点が興味深い。この称名寺は、源範頼公の別邸の地だったらしく、範頼の慰霊とため建立された寺とのこと。「称名寺」という名前の寺と範頼の繋がりで、伊予市における伝承との関連が見えそうで面白いではないか。

本当に範頼の墓なのか

 

 ここに存在するのは本当に範頼の墓なのだろうか。源義経ならば短期間とはいえ伊予守も務めたし、屋島から壇ノ浦まで河野氏と行動を共にしていたので、この地に訪れたとしてもおかしくはない。しかし範頼は、壇ノ浦へ向かう際には山陽道を通っているし、伊予守でもない。従って伊予に関する土地勘などない。また、河野氏は義経が失脚した時に義経との関係を幕府に疑われて苦境に立たされていたわけだから、範頼が河野氏を頼り、河野氏が範頼を受け入れるというのは何ともおかしな話に思える。


 史料と呼べるものが殆どないのだから、範頼の墓がなぜここにあるのかを明確にすることは到底不可能に近いだろう。墓ではなく、供養塔と呼ぶべきものなのかも知れない。


 本当に範頼の墓かどうか、そんな話は別にして、ここに範頼の墓と呼ばれるものがあること、大洲藩主代々の崇敬を受けたということ、地元の人達が丁重に守り続けてきたこと、これは疑いない事実である。


 明治の文豪たちも、修善寺だけでなく、この伊予の地の範頼の墓を詣で、作品の中で取り上げている。夏目漱石は英語教師として松山中学に赴任した時にここを訪れて、「蒲殿のいよいよ悲し枯尾花/木枯や冠者の墓撲つ松落葉」の句を詠んだ。この句は、鎌倉神社の社殿左手前に建てられている句碑にも刻まれている。正岡子規も大学予備門在学中に武市庫太と共にこの墓を訪ね、漢詩を書いたりもしている。


 だから、「源範頼が伊予に落ち延びたなんて、どうせ作り話だろう」などと速断して、ぞんざいに扱うわけにはいかない。伝説の真偽はどうあれ、当地の歴史を考える契機として非常に役立つ素材であることに違いないし、なにより風情のある場所なのだ。旅先としてここに足を延ばしてみても決して損しないように思えるのである。

◆執筆者の詳細◆

店名:こたろう博物館

住所:愛媛県伊予市灘町60-3  

電話:(非公開、詳しくは店頭で)

営業時間:10:00~19:00

定休日:火・水曜日

(その他不定期休がありますので詳しくはホームページ等のカレンダーでご確認ください)

HP: http://kotaro-iseki.net

FB: https://facebook.com/kotaro-MLA


来週あたりついつい行きたくなる

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イラスト:山内ひろみ

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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