伊予市パーフェクトガイド
ようおいでたなもし、伊予市パーフェクトガイドの世界へ~♪~♪~♪
第239回目は、伊予市にある「こたろう博物館」の館長であるいせきこたろうさんの
『伊予市、ナニミル?ナニヲシル?』
第50回源平伝承シリーズ1回目です♪
お楽しみください!
前回、五色浜に伝わる『五色の姫』の話を取り上げたのだが、今回はそれに関連して「伊予市内に伝わる源氏・平家のお話」に触れてみたい。
「源氏・平家のお話」とは言うけれども、歴史について詳しく伝えるつもりはないことをあらかじめお断りしておく。言い訳がましくて申し訳ないのだが、僕は歴史学について自慢できるほどの知識を持ち合わせてはいない。恥ずかしながら、上っ面を軽く舐める程度でしか歴史は語れない。従って、「多少の誤りは御笑覧」ぐらいの感覚でこの記事を読んでいただければありがたいのである。
まず、「源平伝説」と大括りで捉えたのだが、今の時代に「源平」といったところで、どれだけの人が興味を持ってくれるだろうか。「源氏物語」「平家物語」といった文学作品もあろうし、それなりに一定数の根強いファンはいるだろうが、「源平伝説」が、この伊予市を巡る旅のコンテンツとして大活躍してくれるだろうか。ちょっとそこには疑問を感じるところだが、まあ一つの動機付けにはなるはずだ。
この伝説が語られる時期というのは、源平という二大勢力が激突し、政権を取り合う時期。時代区分でいうと平安時代末期から鎌倉時代。いわゆる「中世」の幕開けの頃だ。貴族による政治が武家に移行する過渡期・転換点ということで歴史的意義は大きい。是非とも学んでおきたい時代である。
そこで語られる物語は、平家物語でお馴染みの「盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり)」-勢いが盛んで栄えている者も必ずいつかは衰えて滅びる-という、この世の無常をベースとし、人々の涙を誘う哀話、「御涙頂戴」と言わんばかりのストーリー仕立てで語られることが多い。脚色を多分に含んでいるだろう。だから、語られる話をそのまま鵜呑みにしてはならない。そこは心得ておくべきであろう。
前置きが長くなったが、まずは「平家」についてざっと触れておこう。
平家一門を束ね、武家社会の礎を築いた人物である平清盛は、瀬戸内海の制海権を掌握し、瀬戸内海沿岸を拠点として勢力を広め、やがて娘が生んだ皇子を「安徳天皇」として天皇につけ朝廷の実権を握るまで上り詰めた。しかし、治承4年(1180)以降の源氏挙兵が始まり、以降、駿河国富士川、倶利伽羅峠、一の谷、屋島などでの戦い、いわゆる「源平合戦」を繰り広げ、敗走。平清盛も逝去してしまう。そして、元暦2年(1185)の壇ノ浦での最終決戦で、追い詰められた平家一門は海中に入水して果てた……というのが、平家に関する大雑把な経緯である。
「平家伝説」というものは、平家が滅亡した後の出来事を伝えるものが圧倒的に多い。僕なりにそれをざっくり分類してみると
① 平家の末裔が落ち延びてきて隠棲・土着した(隠れ里伝説)、あるいはその地で亡くなった。
② 平家に関係する人の遺骸・遺品が漂着した。
③ 平家に加担した人たちが戦闘に敗れ死去、あるいは他の土地へと逃散した。
の三つに大別できる。
前回取り上げた「五色姫伝説」は①の一種であるといえよう。具体的な人物は不詳だが、とにかく平家の一傍流の姫君たちがこの伊予市の地に漂着してきて、そこで果てたわけである。
愛媛県内、いや四国全体を眺めてみると、安徳天皇に纏わる伝説が多いことに気付く。安徳天皇は三歳で即位し、八歳のときに壇ノ浦の戦いに敗れ、入水したことになっている。ところが、実際に入水して死んだのは替え玉・影武者で、安徳幼帝は逃げ延びて四国に上陸し、山奥深い場所に隠棲しては逃げてを繰り返したという話がまことしやかに伝えられることも多い。例えば、愛媛県四国中央市金田町の切山、徳島県の祖谷渓、高知県の横倉山に、逃れた安徳天皇ご一行が隠棲した話が伝わる。
その他、平家一門の落人にまで話を広げれば、八幡浜市の平家谷などにも落人隠棲・土着の伝説が残っている。
こうした話は、身を隠してひっそりと暮らせる環境でなければならず、都市部ではなく、交通の便が悪い、いわゆる「僻村」が物語の舞台の条件となる。そのせいか、東予・南予では平家落人伝説が多く伝わるが、中予では皆無に近い。さて、伊予市ではどうだろう。
双海町誌を繙くと、下灘の豊田の浜に「安徳様伝説」というのが伝わるようだ。安徳幼帝の遺骸が豊ヶ浦(豊田の浜)に流れつき、土地の人たちによって祀られたらしい。上記分類でいえば②にあたる。
その塚がどこにあるのかは、僕は残念ながら現時点で確認できていない。豊田奥に御所、上ヶ市、伏野、曳地、八倉屋敷などの地名が残っているらしく、安徳様伝説との関係も見え隠れしているようである。
思うに、平家一門から出た天皇とはいえ、皇族の遺骸が漂着したならばそれ相当の規模の墳墓を拵えて然りではなかろうか。実際、高知県の横倉山などは、安徳天皇陵墓参考地となっており、そこに伝わる隠棲・終焉伝説の信憑性を高めている。
また、安徳天皇一人だけ祀るという点にも疑問が残る。まだ八歳の幼帝ゆえ、御付の人たちもたくさんいたはずである。多くの遺骸が漂着したはずだ。ならば、五輪塔とまではいかずとも、それなりに大きな墓碑が複数個集合したような墓所があって然りだ。こんなことを考えながら、下灘をあちこち巡るのだが、該当しそうな場所が見つからない。墓所探しが宿題として残ったままだ。
伊予市には、もうひとつ安徳天皇にまつわるスポットがある。伊予市中村に鎮座する八幡神社に合祀される「水天宮」がそれだ。同様に「荒神社」も合祀されている。荒神社は明治42年に八幡神社に合祀したという記録が残っているが、水天宮の方は元々どこに祀られていて、何時合祀されたのかという記録を見出せていない。

写真:八幡神社拝殿
この神社に平家に纏わる伝説が伝わっているわけではない。平家一門の哀れな最後を悼んで祀ったと伝えられている、ただそれだけのことだ。祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、そして安徳天皇、母・建礼門院(平清盛の子)、祖母・二位尼(平清盛の妻・時子)という平家の面々である。福岡県久留米市瀬下町に鎮座する総本宮の水天宮と同じ祭神の構成だ。
水天宮といえば、県内では東温市横河原に鎮座する水天宮が有名だ。こちらは、慶長七年(1602)、加藤嘉明が松山城を築城するに当たって、普請奉行に任命された足立重信が伊予川(今の重信川)・石手川の付替工事に着手したのだが、その起工式を行うため、そして水難を除き改修工事の完遂を祈するために久留米の総本社より勧請したものである。従って、平家伝説に纏わるものではない。
この地の水天宮も、「平家の慰霊」が祭祀目的ではないのかもしれない。水天宮は、社名に「水」が入っていることからか、古来より水の神として崇敬されているようであり、農業の守護神として勧請・祭祀されたのかも知れない。「水」繋がりで、海上安全を祈願して漁業・船舶業者による勧請とも考えられる。また、幼帝の霊を祀ること、明治天皇が誕生される際、孝明天皇が福岡県久留米市に鎮座する水天宮の総本宮へ祈誓され、無事安産するに至ったことから安産・子授けの神としても信仰されたようなので、安産・子授け・子育てといった子供の守護神として御利益を与かるために勧請したのかも知れない。
そう言ってしまうと、源平ロマンを感じる場所とは言えなくなってくるのかも知れないが、「水天宮」が祀られているのは事実。一度くらいはここに参拝に訪れて、安徳天皇らのことを思い起こしてみてはいかがだろうか。
次に取り上げるのは、冒頭で示した分類の③のパターン。平家直系の人物ではなく、平家側に加担した「高市氏」に纏わる伝承だ。
高市氏に関する伊予市の事績を掻い摘むと以下の通りになる。
平家が興隆を極めていた頃、伊予郡は在地領主であった高市氏が治めていた。高市氏は、現在の伊予市三谷に「三谷館」、上吾川に「吾川館」を設け、そこを拠点としてこの地域を統治していた。もともとは新居氏の一族、いわゆる河野一族であった高市俊儀(としのり)・秀儀(ひでのり)は、治承四年(1180)の河野通清による高縄城挙兵から養和元年(1181)の高縄城落城の頃、平家に加担するようになった。これにより、伊予郡下は平家の勢力下に置かれたのだが、九州から帰還した河野通信らによる平家討伐により状況は一変する。元暦二年(1185)に河野通信の攻撃を受けた秀儀やその主従は自害し、俊儀は讃岐の屋島に逃れたという。
一言で言ってしまえば、「平家筋の人間が、戦いに敗れ自害・逃散した」ということで、余計な脚色を加えた話はほとんど伝わっていない。あまりにも淡泊な話になってしまい、皆さんの興味をそそらないかも知れないが、その痕跡を示す場所・地名等は意外と残っている。それらをピックアップして紹介しておくので、探訪の旅の参考にしていただきたい。
三谷館:現在客池辺り(伊予市三谷)に置かれていた。秀儀はここで戦死(自害)した。

写真:伊予市上三谷 客池
多喜寺跡:上三谷にある。現在は墓地となっている。高市氏代々の香花院(氏寺)であった。高市清儀の死後、彼の遺骨を彫刻して仏像を造り、この寺の本尊としたという。
吾川館:現在の称名寺(伊予市上吾川)あたりとされる。鴛小山と呼ばれる場所で、小山城と呼ばれる砦が置かれたという。高市俊儀は河野通信による三谷館襲撃を聞き、ここに籠城したが、形勢不利となり讃岐へと逃散した。
若一皇神社:上三谷にある。平清盛が建立した京都の若一神社を、高市氏がこの地に勧請したという。源平合戦に出た河野氏は、若一社の神力によって戦功をたてたとされるようだ。源氏側の人間が平家側が建てた神社から戦勝の御利益を授かるというのもちょっとおかしい気もするが、まあ、細かいことは気にしないでおこう。なお、この神社は明治後期に三谷神社に合祀されたが、平成4年に元鎮座地へ社殿を設けて現在に至っている。

写真:伊予市上三谷 若一皇神社
あと、特定の場所というわけではないけれども、「歯朶に鶯の家紋」も平家に纏わる話として取り上げておこう。
大谷池の支谷の一つに本妙谷(ウグイス谷)というのがある。源氏に追われた平家の落人がこの谷に潜伏し、歯朶の葉の下に身を潜めていたところ、歯朶の上で鶯が鳴いたので、敵は「鶯が鳴くのだから落人は隠れてはいないだろう」とその場から去った。鶯が鳴いたおかげで助かったことから、家紋を「歯朶に鶯」にしたらしい。
この家紋、高市・武智・向井姓などのお宅で用いられることが多い。また、若一皇神社や武智氏が宮司を務める神社などで神紋として用いられる例も多数見られる。
稲荷地区の谷にも同様の話が伝わる。ただし「平家」「源氏」と具体的には述べておらず、「武士」「追手」として語られている。こちらは特定の姓氏というよりは、その地域の住民全般の家紋として用いられているようだ。
自分ん家の家紋じゃない人には余り興味が湧かないかもしれないが、伊予市八倉~稲荷にかけて局在的に集中している点が面白い。街角ウォッチングではないが、この地域のお宅の屋根瓦や墓石等を眺めてみると色々なデザインの変種が見つかって、意外と楽しめる。
まあ、他人ん家や墓石を見て歩く行為は、一般的な目で見るとかなり「怪しい」ので、実行に移す場合は不審者扱いされないよう、くれぐれも気を付けて欲しい。このご時世、不用意にカメラを向けてパシャパシャやっていると、トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)」による強盗の前準備とも捉えられかねないので、そのあたりは節度を持って行動いただきたい。
◆お店の詳細◆
店名:こたろう博物館
住所:愛媛県伊予市灘町60-3
電話:(非公開、詳しくは店頭で)
営業時間:10:00~19:00
定休日:火・水曜日
(その他不定期休がありますので詳しくはホームページ等のカレンダーでご確認ください)

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

伊予市ガイド vol.239【こたろうの『伊予市、ナニミル?ナニヲシル?』】 第50回:源平伝承-(1)

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