伊予市パーフェクトガイド
ようおいでたなもし、伊予市パーフェクトガイドの世界へ~♪~♪~♪
第245回目は、伊予市にある「こたろう博物館」の館長であるいせきこたろうさんの
『伊予市、ナニミル?ナニヲシル?』
第52回源平伝承シリーズ3回目です♪
お楽しみください!
前回、源範頼に纏わる話を取り上げたのだが、語り尽くせなかった部分が残っているので、まずはそれをもう少し補足しておこう。
源範頼の墓の付近には矢竹が叢生していたという。これは、源範頼が携えていた竹製の鞭を地面に立てたところ、それが根付いて繁茂したものだと伝えられる。鞭を生竹で仕立てたはずもなく、「それを立てたら根付いた」と言われてもにわかには信じ難い。飽くまでも伝説の枠を超えることはない。
これは、「伝説・歴史上の人物が杖を立て、その木が根づいて成木となった」というモチーフで語られる「杖立伝説」の一つに他ならない。まあその真偽はともあれ、源範頼由来であるとまことしやかに囁かれる名竹がここにあったことは紛れもない事実なのだろう。
しかし、鎌倉神社境内地の薄暗い林の中を歩いてみても竹藪らしきものは見当たらない。捜索範囲を広げ、鎌倉神社の北側・東側辺りを探ってみると、確かに矢竹が群生している場所が散見される。「これが噂の矢竹か」と一瞬感動を覚えるものの、説明板が建てられているわけでもなく、言うなれば単なる竹藪。名所感など全く感じられやしない。
また文献などを見ると、範頼の墓の周辺は「松が繁茂し、昼間でも薄暗い」と紹介されている。実際に現地を訪ねると、確かに辺りは薄暗くて、薄気味悪いというか、物悲しさと心細さを感じずにはいられなくなる。
いまや松樹の姿は見る影もないが、明治の頃は松の大樹が多くあったらしい。それらの松は、日清事変、日支事変と大戦の度に枯死し、大戦毎に範頼の霊が戦争に出征すると語られていたようでもある。
次に、源範頼に関する話の一つで、範頼の愛馬「虎月毛」に関する伝説が伊予市大平に伝わっているので、それを紹介しておこう。
源範頼の家来に九門修理(くもんしゅり)という人がいた。九門修理は大平梶畑に居を構え、範頼の愛馬・虎月毛を死後も大切に飼育していたのだが、終には馬に先立って病死した。残された虎月毛は大平の野山を走り回っていたが、決して農作物などを荒らすことはなかったという。虎月毛は長命で、五百数十歳で死んだという。馬の一般的な平均寿命は 25~30歳らしいから、何とも恐るべき長命ではないか。
虎月毛の死骸は、善正寺下手の御所川原に捨て置かれていた。範頼の愛馬だというのに、何と粗末な扱いだろう。まあ、それはそれとして、虎月毛が死んで七日目に、村人が御所川原へ様子を見に行ってみると、虎月毛の死骸は消え失せていたという。何とも不思議な話である。

(写真:森川に架かる御所の川橋)
御所川原の名は、今も橋名で確認することができる。上の写真は、森川に架かる御所の川橋である。橋上から川を見下ろすが、河原と呼べるような広いスペースは見当たらない。森川自体が小河川で、小石が堆積するような箇所など、河口近くでなければありゃしない。御所川原という地名が残るのが何とも不思議な場所だ。
ともかく、虎月毛の死骸が消え失せて以降、大洲街道の大鷦鷯神社辺りを夜更けに歩いていると、梶畑の方から馬の嘶く声が聞こえたとのことである。上の写真の道の突き当りには大鷦鷯神社が鎮座する、そんな位置関係である。ひょっとしたら、この橋の近辺を虎月毛の亡霊が彷徨っていたのかもしれない。そう考えると、何の変哲もない田舎の風景も、何となくロマン溢れるように思えてくるじゃないか。
さて、後の世になり、馬に原因不明の病が流行ったため、忘れられつつあった九門修理の墓が整備されたという。馬の病なのだから虎月毛の怨霊の仕業と考え、虎月毛を祀っても良さそうなものだが、どうやら虎月毛の飼育者であった九門修理の方を祭祀したようだ。馬の飼育者だったからこそ、馬の祟りを鎮めるためなら彼を祭祀した方が御利益がありそうだと地元の人は考えたのかもしれない。
この九門修理の墓は今もなお残っている。伊予市大平梶畑の梶畑集会所の敷地内にある小さな祠がそれだ。

(写真:九門修理の墓[大平梶畑])
祠の中には宝篋印塔と源太石製石柱が各1基収められている。どちらも記銘等は全く確認できない。宝篋印塔の方は、色合いから見ると異種石材の組み合わせのようにも見える。相輪部の九輪が欠如しているし、一体モノとしては宝珠がやや大きすぎ、バランスが悪いような気もする。確たる根拠はないが、元々の石塔を概ね残していると信じたい。
この石塔は、確か、元々は別の場所にあったはずだ。梶畑集会所の上側の畑の中に、昭和25年(1950)に県の天然記念物に指定された蘇鉄の巨木があるのだが、石塔はその蘇鉄の下にあったように記憶している。それが何時現在の位置に移設されたのかの記録が見当たらず定かではない。
ともかく、ここ大平には、九門修理や虎月毛に紐づけられる地名(ほのぎ)が多く残っている。「公門修理」「修理谷」「馬渡せ」「馬塚」「犬の馬塚」といった直接的なものから、虎月毛を落とした場所ということで「大落し」といったものもある。地名だけでは、この伝説が事実であるとの裏付けにはならないが、何かしらそこに、源範頼の愛馬に関する一連のストーリーが感じられるのが面白いではないか。
さて、上で「馬の病気封じのために九門修理の墓を整備した」と書いたのだが、ある本によれば、馬塚を築いて供養したとも書かれている。九門修理の墓と呼ばれるものは、宝篋印塔という形態から考えても、馬の供養のため設けたものとは思えない。「九門修理の墓」という見立てで誤りはなかろう。
それでは虎月毛の供養はなされていないのか。虎月毛の墓は作られていないのか。もっとも、先ほど述べたように、虎月毛の死骸は御所川原から忽然と姿を消してしまったのだから、葬りようもないのだが、供養塔ぐらいはあっても良さそうなのに。
ところが、伊予市内の全く別のところに、この虎月毛を葬ったとされる場所があるようだ。大平ではなく、下吾川にである。伊予農業高校の北東にあるファミリーマートから伊予警察署にかけての一帯の地名を馬塚と呼ぶのだが、この「馬塚」が虎月毛に纏わるというのである。現在、蓮光寺跡地に馬塚墓地が設けられ、多くの墓碑が立ち並んでいるが、塚があったのはこの墓地辺りであろうか。土地がこんもりと盛り上がっているわけでもなく、残念ながら今となっては塚の存在を実感しようもない。
断片的な話しか残ってないので、真偽のほどは定かではないが、範頼が吾川に葬られたことを考えれば、虎月毛も飼い主と同じ吾川の地に葬ってあげたいということで、死骸を捨て置いていた御所川原から運搬して塚を築造した人がいたのかもしれない。そうすれば、御所川原から死骸が消えたことの説明もつく。ただ、もしそのような理由ならば、なぜこの場所なのか。上吾川の鎌倉神社の最寄り埋葬してあげても良さそうなものなのに。
以上、伊予市に伝わる九門修理と虎月毛の話を淡々と述べてきたが、彼らは本当にこの大平の地で生涯を終えたのだろうか。
『南海治乱記』という書物を繙くと、「昔、肥後の国の菊池氏は、源氏の方人(味方)として忠義に励んでいた。源範頼はこれを感心して虎月毛という馬を与えた。この馬は命が長く、菊池氏の後代に至るまで生存し、永禄(1558~1570)のころまでいた」という記載が見える。また、「文禄のころ、この馬は五百歳で死んでしまった。郡内の者たちは葬式の行列をし、野に出て葬ったが、千人余りの人が出たという」とも記している。これが確かならば、源範頼の生前に虎月毛は既に120歳ぐらいの高齢で熊本の地に至り、それから380年の長きにわたり熊本にいて、そして熊本で死んだことになる。伊予市の話とは完璧に矛盾するではないか。
熊本と伊予市大平を繋ぐものはあるのか。思考をあれこれ巡らせてみる。ふと、肥後熊本藩の初代藩主が加藤清正、大洲藩の初代藩主が加藤貞泰で、同じ加藤姓であることに気付く。加藤家で伝わる一つの話が、熊本・大洲両藩に伝わっていったのではないか。「おお、これは新たな発見では!」と心躍らせたのだが、調べてみると加藤清正は尾張加藤家、加藤貞泰は近江加藤家の出で、両者に血縁関係はなさそうである。しかし、着眼点は良いのではないか。熊本と伊予市大平の繋がりというものを、もっと仔細に調べ上げていけば、この「虎月毛」伝説を解明する何らかの糸口が見つかるのではないか。あらためて奮起する僕であった。
「九門修理と虎月毛」ということで、伊予市大平に伝わる伝承をあれこれ述べたのだが、ここ大平には、もう一つ、源氏に纏わる伝説があるので、ついでにそれに触れておくことにしよう。
大平には大地蔵と呼ばれる仏像がある。今は石地蔵となっているが、以前は木地蔵が祀られていたらしい。この木地蔵は弓の名人として知られる那須与一が安置したものだと伝えられている。那須与一は、源頼朝に仕えていたとされる平安時代末期の武将であり、屋島の合戦で平家が船上に掲げた日の丸の扇をめがけて矢を放ち、見事命中させた逸話で有名だ。この時に「願いが叶えば四国予州に下り仏像を供える」と願掛けをし命中できたことから、その願ほどきとして大平に木地蔵を祀ったとされている。何時の頃か定かではないが、木地蔵は如法寺(大洲市)に移され、現在はその代わりとして石地蔵が置かれているという。

(写真:大平の大地蔵)
西予市野村町出身の僕にとって、那須与一は少々馴染みが深い人物だ。野村中学校が置かれている小丘の西面中腹辺りが「権現」と呼ばれる集落なのだが、この地名はここに鎮座していた熊野神社(熊野権現、昭和31年三島神社に合祀)に由来する。この熊野神社は、那須与一が紀州より勧請したもので、この周辺には那須与一の館があったらしい。そのせいか、この辺りには那須という姓の家が散見される。
この2つの伝説を合わせて考えると、おそらくは、西予市野村町へと下る道中で、伊予市大平に仏像を収めたのであろうが、なぜ願ほどきとして仏像を安置したのが大平の地なのだろうか。それを説明する史料は探せどもなかなか見つからない。伊予市誌には、「伊予国の中央にあたるから」と淡泊に説明されているが、ならばもっと松山寄りであっても良いのではないか。
考えるに、当時は伊予市から南へ向かう街道も整備されておらず、犬寄峠を越すことも一筋縄ではいかなかっただろうし、その先も難所続きであろうから、自身はもとより旅人の道中安全の祈願も兼ねて、犬寄峠の上り口に地蔵を安置したのではなかろうか。そう考えれば、少しは辻褄が合いそうだ。
しかし、これも単なる僕の憶測に過ぎない。本当に那須与一が愛媛の地に移ってきて終焉したのか、大平の大地蔵は本当に那須与一が収めたものか、もっと資料を集めながら突き詰めていきたいものである。
以上、源範頼絡みの話と那須与一に纏わる話を紹介した。伝説一つをとってみても、深く追っ掛けるとと知らないことがてんこ盛りであり、知ろうと思えばあらゆる方面から攻めて調べ上げなければならないことに気付かされる。伝説を丹念に検証したところで、日常生活に大きな影響を及ぼすとか、社会に大きなインパクトを与えるとか、そんなもんではない。謎を解き明かすことで自己満足感を得る、ただそれだけの話である。それだけのことだが、性懲りもなく、今日も明日も面倒くさい調査活動を粛々と積み重ねるのである。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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