当時岡大には、革共同中核派は主立っては登場していませんでした。
分かりませんが、メンバーを大阪や東京に異動させていたのではないでしょうか。
私の水島共闘会議に対する相手側の部隊にも女子メンバーが多くて、ヘナヘナの部隊でしたので、弱かった。あっという間にしりぞいていったわけです。
プロ青同は、しっかりした組織で労働戦線「蟻の巣」社をつくり、活動していました。水島にあるあの三菱自動車の真ん前で、こと西のローザルクセンブルグ(第一次大戦後のドイツ共産党員)は背中に子供を背負い、ビラ配りをしていたのにはおそれ入りました。
学生戦線は、日本原現地に現闘小屋「馬天嶺」をつくり、援農活動しながらニュースを発行している、しっかりしたメンバーです。
党派的駆け引きもすることなく共同戦線を張っていました。
しかし、プロ青同は党組織が弱く、我々から見ると育ちの良い連中です。ここに関西のつわものが忍び込んできました。
マル青同を名乗り、じわじわと勢力を張ってきます。岡大の構内には、学生寮・北津寮がありました。そこを拠点化していきました。
1975年、社青同・プロ青同・マル青同という新たな三派連合が形成されました。マル青同は若い学生が多く、70年安保前後の政治闘争を経験してない人達であり、毛沢東理論を借用した党・軍建設です。
岡大生という若きインテリを洗脳する組織となり、勢い、それに反対する人たちを追い詰めていくことになります。
三者のなかでは一時期もっとも多い動員力(約100名近く)を誇っていましたが、この時、北津寮で一般学生が死亡しました。
1975年5月、マル青同が使っていた車でひき殺される事件がおきたのです。
死ぬということは大変なことです。この死は偶然ではない、単なる過失致死とはならない側面もあります。
もう一方では岡大学生寮をマル青同の草刈り場にさせないとする動きがありました。
寮を静かな生活の場として守ろうとしていた。この場所で悲劇が起きたのです。
毛派に限らず、あらゆる党派は、ある一つの仮説・理論を強要又は同調することを求めます。
相手の活動家が云っていることに同意できるとしても、集会やデモに参加できるとしても、相手の組織に入るのにはさらに大きな大きな飛躍があります。
まだとどまっている人間に、ある思想を強要し続けるとどういうことになるか。強要が強迫となり、拉致につながっていくのです。同意しないから、強要―テロ行為―死となった事件です。同意するかしないかは本人が決定します。本人の尊厳の問題です。
連合赤軍による同士殺害についての反省的洞察が全くありません。
このマル青同の殺害事件は、岡大での闘いが終息したことになりました。
日本における徴兵制度も国家レベルでの犯罪でもありました。拒否権を人々の側に存在させておくことが重要です。
いかなる戦争にも本人の自由な判断によって拒否できると明言すべきです。
また問題も残る。本人の家族が国家によって人質となる場合がある。今のロシアによるウクライナ侵攻では、ロシア国民は拒否できなくなっている。ロシア国家のある形が、民族とその文化に対して常に抑圧と支配になっている。
まことに戦争のやりやすい国になっています。
こうしたロシアに攻撃されているウクライナは、まことに気の毒としか言えません。独裁国家としてのロシアを見ていくと、自由と民主主義の下で国を発展させようとするウクライナを応援したくなります。
ウクライナはナチスだけでなく、ロシアの帝政時代から現代までずっと150年も抑圧され続けてきました。ウクライナ人は、抵抗している。マフノ軍の闘いもある。ソ連軍によって人為的な大飢饉をも経験しました。
2014年のマイダン革命の後、私はウクライナを旅したことがあります。その時は、チェルノブイリの原発事故の(その後)調査ということでした。
ある著名な精神科医の旅行と調査に随行しました。
この後、1976年5月16日に日本原投石事件がおきます。
このことは別なところに書いているのでここでは省きます。
当時私は、岡山での闘いに限らず、徳島大学の反帝学部、反戦派労働者と協調していました。この30名位の部隊指揮をしたのは、私です。
ウィキペディアに掲載されている日本原投石事件の概要、顛末についていくつかの過ちがあるので、ここで暴露したいと思います。
「対峠が続く中で、抗議団から石が投げられ、隊員に負傷者が出るなど自衛隊側は大きく混乱した。混乱の中で自衛隊員の一部が抗議団から投げられた石を投げ返すことで反撃し、騒乱となった」
この文節には大きな誤ちがあります。
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