第16章 松山の古本屋はどうなっているんだ 2 芋地蔵巡礼 ― イモがなかったら 2
写楽堂

「芋地蔵巡礼」表紙
「芋地蔵巡礼」木村三千人 国書刊行会
教科書では昆陽が江戸の小石川でサツマイモを試作したことになっています。
下見吉十郎はそれよりも23年前に、瀬戸内の島々、大三島に伝えていました。「芋地蔵」がたくさん残っています。
作者は10年間にわたってこれらの島を調査し、記録を一冊の本にまとめ上げました。
私自身山村で育ったので、サツマイモにはずいぶんお世話になった。
もし藷がなかったら、山村には人が住みつかなかったのではないかとさえ思います。
四国の山村に人が住み始めたのは、藷が広く普及してからのことではないでしょうか。
私は、四国山村のはじまりは、人々のルーツは、これらイモ栽培が盛んで、その結果人口が増加し移り住んでいったことに起因すると考えます。
明治期の産業、炭坑―銅生産は、食料の安定的確保があったからこそ、農村部に住んでいた人々、とくに次男三男が労働力になり、都市の発展を支えてきたと思うのです。
イモの果たした割合は大きい。山村でイモを食って育った人々が住友銅山や三池炭鉱で地中にもぐり採掘をしたのです。
私のイメージでは300年にわたる都市と農村の相互作用が一つのドラマとなります。
私事ではありますが、生家の屋号は野地(のじ)であり、村名とは違っているのです。
書物(日本民俗文化体系)によれば、
①同じ地名が広島県尾道の近くの漁村にある。
②これらの人々が何らかの理由で、瀬戸内の各地に移り住んでいった。飢餓によるというよりは、イモや農業技術の発展で増産―人口増加―流失となっていった。マルサス(イギリスの経済学者)の人口論です。
私は野地衆の一族であろうか。
イモ ― キキン ― 移住が起こったのではないか。イモは山間部でもつくれる。米に比べて税逃れがしやすい。
そして、ここ50年余りは、これら山農村で育った私らの、90%以上の人たちが都市部に流入し、住んでいるのです。
18世紀 農漁村から山農村へ、そして19世紀に再び都市へ回帰したのではないか。
◎「おきち」の由来は?回答者にイモを進呈!
さて、私の疑問ですが、農家ではサツマイモを薄く切ってお湯を通したものを、
藁ひもで良くつるしていました。
あめ色になって、粉がふいたりして、糖分がよくのっていました。
冬期に食していたこれを「おきち(干しイモ)」と言っていたのです。
これはもしかしたら、大三島の下見吉十郎の吉が由来ではないでしょうか?
知っている方がいたらご意見をお寄せください。
2023年のイモの収穫期11月にはイモ10個を進呈します。
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この本を読んだ人には、更に次の本をおすすめします。
「茶の世界史」 角山栄 中公新書
「砂糖の世界史」 川北稔 岩波ジュニア新書
「お茶の来た道」 守屋毅 NHKブックス
「コーヒーが廻り世界史が廻る」 白井降一郎 中公新書
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