伊予市パーフェクトガイド
ようおいでたなもし、伊予市パーフェクトガイドの世界へ~♪~♪~♪
第248回目は、伊予市にある「こたろう博物館」の館長であるいせきこたろうさんの
『伊予市、ナニミル?ナニヲシル?』
第53回源平伝承シリーズ4回目です♪
お楽しみください!
今回は、源平伝承の4回目。双海・中山地区に伝わる山吹御前の伝説に焦点を当てることにする。
伊予市中山町佐礼谷の山吹地区に、「山吹神社」が鎮座している。
現在の社殿は、明治27年(1894)に建築されたものである。単に「明治27年」と記したのだが、文献・ガイドブック・ホームページ記事などを数点あたってみると、建築時期の記載が、明治25年~明治27年の間で揺らいでいるのだが、どうやら明治25年に寄付金集めを開始し、明治26年に着工、明治27年に落成したということのようだ。

(写真:山吹神社)
社殿建築の大工棟梁は、明治初期~大正にかけて愛媛県下で多数の建築物を手掛けた宮大工集団、いわゆる「長州大工」の頭領・門井友祐である。門井友祐の建築物においては、どちらかというと、神社拝殿向拝部の蟇股や木鼻、拝殿両脇の脇障子といった建築意匠の巧みさ・美しさに目を奪われがちだが、建築物の構造自体が優れていることを見逃してはならない。
ともかく、この時期に、門井友祐(及び兄の門井宗吉)は、山吹神社のみならず、永田三島神社、川崎神社、盛景寺など、中山町内において多くの社寺の建築を手掛けている。とりわけ、永田三島神社の社殿は、山吹神社社殿とほぼ同時期に着工・竣工している点が興味深い。同町内とはいえ、出淵と佐礼谷の距離は割と離れている。同時並行でよくやってのけたものだと感心する。
さて、この神社の祭神はというと、古事記とか日本書紀に出てくる神様ではなく、前々回の鎌倉神社と同様、人物を神として祀っている。「山吹御前」という人物だ。だが正直なところ、「山吹御前」と言われてもピンと来ない。歴史の教科書で学んだ記憶も全くない。
一言で片づければ、山吹御前は「木曽義仲の第二夫人」なのだが、木曽義仲のことを知らなければ、何の説明にもなりゃしない。まずは、木曽義仲についてのあらましを纏めておくことにしよう。
木曽義仲(源義仲)は、平安時代末期の源氏の武将で、源範頼・義経兄弟とは従兄弟にあたる人物だ。
義仲は、武蔵国の大蔵館(現・埼玉県嵐山町)に拠っていた源義賢の子として生まれた。
久寿二年(1155)、義仲が2歳のとき、父・義賢の兄である義朝の長男・源義平が、武蔵国における勢力拡大のため、大蔵館へ攻め入った。この「大蔵の戦い」で義賢とその一族の殆どは討死し、義仲も危うく殺されてしまうところだったが、義平の家来であった畠山重能・斎藤別当実盛の計らいもあって、母・小枝御前と共に助けられ、信濃国(長野県)木曽の中原兼遠に預けられた。こうして、義仲はやがて「木曽」姓を名乗ることになる。
時を経て、治承四年(1180)9月、源頼朝が平家追討のため挙兵したのに呼応し、義仲も源氏再興を目指して挙兵した。翌年の養和元年 (1181) 2月に平清盛が崩じ、源氏の気勢が一層高まる中、義仲の軍は西進し、寿永二年(1183)の俱利伽羅峠・篠原の戦いで平氏の大軍を撃破しつつ、一族に先んじて京に入った。そして、当時横暴を極めていた平家を追放し、都を平定しようとした。
義仲は京都に上洛後、中央政権を握ることになる。朝廷より朝日将軍の冠位を賜り、自ら天下統一しようと考えたようだ。
関東を基盤とする頼朝は、秩序ある武家政権を目指していたため、義仲のこうした動きが面白くなかった。そこへ後白河法皇から頼朝に対して義仲軍追討の命が下った。こうして、従兄弟同士の間に対立が起こる。
義仲は、最終的に頼朝が差し向けた範頼・義経の軍勢に追われ、寿永三(1184)年1月、近江国の粟津が原で討死した。
ここまでが、木曽義仲の来歴の概要だ。
木曾義仲には巴御前という第一夫人がいたのだが、義仲の寵愛を受け第二夫人となったのが山吹御前である。
山吹御前は、義仲が討死した後、自身に危険が及ぶことを恐れ、従者とともに京都を脱出した。難波(大阪)へと下り、そこから船に乗り、瀬戸の海路を西進し伊予を目指した。
伊予国は、元々平家の平重盛・維盛が遙任での(実際に当地に駐留せず、京に居たままで)国司を務め、実務は平家方の高市氏が行っていたのだが、平家討伐後は木曽義仲が国司に任ぜられていた。だから伊予には、山吹御前らが頼るべき知人がいたのかもしれない。
ところが、逃亡先として伊予を選んだものの、伊予の豪族たちは殆どが源頼朝方となっていたため、安心して身を寄せることはできなかった。伊予は決して安全な地ではなかったのだ。
松山平野沿岸部では着岸できず、已む無く船を先へ先へと進め、現在の伊予市双海町上灘から夜中密かに上陸することとした。頼朝方に捕えられることを恐れ、昼間は木陰などに身を潜め、夜に人目を避けながら上灘川沿いに奥地へと向かった。
食事もままならない不眠不休の長い船旅。敵に見つかることの恐怖からくる心労も積み重なり、山吹御前の一行は皆、疲労困憊で憔悴しきっていた。奥地へと一歩ずつ足を進めてきたものの、大栄口(おおえぐち)、現在の翠小学校東側あたりに差し掛かったとき、山吹御前はとうとう疲労と病気で息絶えてしまった。
従者たちは山吹御前を人知れぬ所に埋葬しようと、笹竹を束ねてその上に屍を乗せ、それを曳きながら犬寄峠付近の集落である東峰へと向かう坂を登っていった。このことから、この坂のことを曳坂(ひきざか)と呼ぶ。

(写真:伊予市双海町上灘の曳坂上り口)
曳坂を上り切った所で、従者一行は山吹御前の遺骸を中心に据え、その周りに楯を突き立てて囲いにして、そこで野営することにした。楯を立てたことから、その場所は築楯(ついたて)という地名となったらしい。
この逃避行は、義仲が討死した直後と考えれば2月ぐらいのことであろうから、楯を囲いにしたのは、防寒の目的もあったに違いない。だが、それだけではなかろう。この辺りは犬寄と呼ばれており、山犬が多く出現する場所だ。屍の臭いを嗅ぎつけて山犬共がいつ襲い掛かってくるかわからない。それに備えての防禦の意味合いも兼ねて楯を取り囲むように立てたのだろう。
翌朝、築楯を出発。再び丘を越え谷を渡り、更に奥地へと遺体を運んでいった。
そして、従者一行は佐礼谷日浦の仁壬川(にぶかわ)の辺にたどり着いた。この場所を墓地と定め、山吹御前を葬ることにした。いったん松森城の山麓の山道を登ったところで、山吹御前を死に装束に着替えさせた。この場所をイショガエ地(衣裳替え地)と呼ぶ。
そして、従者たちは農民としてそこに住み付いた。この集落を山吹(やまぶき)という。さらに奥に入ったところに源氏(げんじ)という集落がある。ここも従者たちが住み着いた所と語られている。
これらは、地名の由来を説明するもので、山吹御前が都落ちしてここに落ち延び、そしてここに葬られたという一連のストーリーの中で辻褄が合う形になっている。一見、合理的な説明に見える。とはいえ、このストーリー全てを真実として鵜呑みにすることはできない。ある程度は疑ってかかる必要があるんじゃないかと思うのである。
例えば「山吹」という地名は、本当に山吹御前に由来するものであろうか。「フキ」は「ツエ」と同様、「崩落」を意味する言葉である。従って、昔ここで大きな山崩れが起こったことを指し示す地名のようにも思える。
ともかく、地名のみならず、山吹神社の近くには、山吹御前を埋葬した塚だと語られる五輪塔が存在する。五輪塔を構成する石材の全てというわけではなさそうだが、部分的には鎌倉時代のものと推定されているらしい。そうであれば、伊予市でも最古級の五輪塔ということになるのだから、大事に守っていきたいものである。

(写真:山吹御前の墓とされる五輪塔)
「山吹御前は疲労と病で亡くなった」と上述したのだが、一部の文献では、加えて「身重であった」とも語られている。ならば、お腹にいた赤ちゃんはどうなったのか。
「長浜町誌」に以下のような記載があった。山吹御前は、猿谷で子を産んだという。「猿谷」でまっさきに頭に思い浮かぶのは、砥部町仙波。しかし、それでは、大栄口で亡くなって佐礼谷日浦まで移送された話と大きく矛盾する。おそらく、「猿谷」は「佐礼谷」と取り違えたのだろう。
ともかく、その猿谷とやらで山吹御前は出産し、子を「おとわ」と名付けたらしい。だが山吹御前は産後三ヶ月で亡くなり、その後、下女たちが世話をしたとのことである。
山吹御前は、神地平治郎という人物の指図で、笹竹に乗せて西前寺(おそらく大洲市手成の西禅寺のこと)へと運ばれ、そこで葬られたという。そして、「おとわ」は大洲市豊茂の者に引き取られて養育され、後に一宮家の妻となったと伝えられる。
ということは、山吹御前は双海町上灘で上陸したのではなく、大洲市長浜町から肱川を遡行して大洲市八多喜あたりで上陸し、そこで出産・死亡したことになる。同じ人間が別々の複数の場所で死ぬことなどないのだから、この二つの話が共に正しいわけはない。
どちらの話も大洲藩内を舞台にしているので、「大洲随筆」などの文献を元に、新たな話が組み立てられたのかも知れない。ひょっとしたら、人形浄瑠璃「ひらかな盛衰記」の地方公演を見て、地元の人が当地の地名と付会して作り上げた話なのかも知れない。自分ちの家系図を作成するにあたり、公卿を代々輩出する特定の氏族に祖先を求める傾向は往々にしてあるので、こうした異説もその流れの中で派生したのかも知れない。疑えばキリがない。
そもそも、山吹御前は本当に伊予の地で崩じたのだろうか。
冒頭で触れたように、木曽義仲の生まれ故郷は現在の埼玉県嵐山町。ここには、班渓寺(はんけいじ)と呼ばれる寺がある。この寺は、山吹御前の菩提寺であるとか、山吹御前が義仲の供養のために開いた寺であるとか言われており、境内には、山吹御前の墓と伝えられる供養塔もある。
また、京都市の有済小学校校庭には、山吹姫墓と呼ばれるものもある。
これらは、本当の意味での墓であるのか、それとも供養塔として設けられたものなのかははっきりとしない。戒名が刻まれたものもあるようだが、後年に追善した際の諡かもしれないので、それだけで「ここが本当の墓」といったことを決めつけるわけにいかない。
以上、散々否定めいたことを記したのだが、僕としては、世の中に流布する山吹御前の各々の伝説を、どれが正しくてどれが誤りであるなどと断じるつもりは更々ない。一つ一つをピックアップして、否定・攻撃するような真似はしたくもない。そこで語られる話には、郷土の地で亡くなられたであろう偉人・英雄たちを思慕し、崇敬する人々の心情が垣間見える。そんな純粋な郷土愛を蔑ろにはできない。
伝説を歴史的事実かどうか正誤判定する必要はない。時には否定しつも、色々な可能性を考察・深掘りをしていくことで教養を深めること、これこそが大事なことなのだ。
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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