保釈申請のことも、本人申請では許可されないらしく、統一救対の人達が私の父と連絡をとって家族申請がなされ、やっと11か月めに保釈申請が下りました。
父は四国のまん中、山地というよりは山岳地帯に住んでいます。私も18までそこで育ちました。
その父はおそらく、はじめて東京にきました。新幹線にはじめて乗って東京駅についた時、父の名前を書いたプラカードを持った統一救対のメンバーに迎えられてお世話になりました。
その日は、裁判所に向い保釈金20万円の納付です。裁判所に対して父はそのお金がないことを申し述べ、半分は保証書で済ませたそうです。
1970年9月末、ついに釈放の日となりました。もう外はうす暗くなっていました。
自分の持物、衣類、本を箱に入れて一歩外へ出た時、父の姿を見て、あわれに感じました。と同時に自分の父をみじめに思う自分が立っています。
そしてその日のうちに夜行列車に乗って岡山につき、宇高連絡船に乗って、約1年ぶりに大学のある高松駅に着きました。
私の釈放は、大学の仲間や関係者には連絡が入っており夜更けにもかかわらず、駅前広場には20名余の人が出迎えていてくれました。
その人たちの前で私は闘いに復帰する「決意表明」をしました。
大学に帰ってみると、日共民青はここぞとばかりに反帝学評(社会党社会主義青年同盟解放派系の学生組織)に対抗しつぶしにかかっていました。
私は、アジトに寝とまりして対策をとっていました。
ある時、学館前でビラを配りマイクで情宣をしていた時に事件が起こりました。
誤って民青のカバン(彼らが云うには「祖国と学問(日共系の学生機関誌)」の購読者名簿が入っていた)を私達のアジトに持って帰っていたところ、日共民青がそのアジトに踏み込んで取り返したのです。
その場で暴力事件が起きました。
権力(警察)の意向を受けて、カバンを盗んだと主張していました。
私らは自分らのメンバーのカバンだと誤って持って帰っていただけのことです。
そこにいた活動家に自己批判文を強要するということがあり、いざこざ・衝突がありました。
日共民青にすれば、自分らは新左翼より警備の対象がワンランク上で、権力は民青の情報をとりたがっていると思っていたのです。日頃から、新左翼の連中はどこかで権力とつながっていると考えていたのです。
また実際上、当時の公安は活動家の周辺にいる学生から情報を得ていたし、お金の供与でマージャンに誘っていたこともあった。日共民青は、自らに反対する新左翼系の学生と権力のつながりを重視し、尾行をして、その事実を問いつめ、自己批判書をとっていました。
すなわち、民青の情報を権力に売っている事実をつかんだということで、他党派つぶしにかかってきました。
翌日になると、「反帝学評=権力」とのつながりを学内で宣伝しはじめました。
我々としては、このことは完全なでっち上げであり、活動家といえども夜に下宿先に押しかけ暴力をふるう日共民青ということで応じました。日共民青=暴力学生と決めつけ、その学生に対しての暴力は認められる―正当防衛だという論理です。
それで、学生大会を開いて、事実を究明しようということになり、開かれました。
日共系の人達は自らに対するスパイ行為すなわち大学自治の否定だと断罪するのに対して、我々の方は「暴力をふるう日共・民青」と応じていました。
学生大会は200名程集まり、相互の非難合戦でハイ終わりとなりました。
日共系 対 新左翼の対立となって引き分けです。
なぜなら、第三者委員会の設立がないのですから。当事者同士の間では決着がつきません。
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